前回は、日本の古墳時代に鉄が伝わり、そこから道具が進化して、はさみやカッターナイフのようなものが伝わったこと、飛鳥時代に入ると仏教が伝わり、仏教の伝来の際に、僧侶が法具の1つとして使っていたカミソリが伝わったことをお話しました。カミソリは伝わっていたものの、現代のように体毛を剃るために使用していたわけではなく、僧侶の修行の一環として使われていたカミソリ。この後もまだしばらくは一般庶民の間で使用されることはありませんでした。今回も引き続き飛鳥時代の美容についてお話ししていきます。
日本での化粧の始まり
6世紀後半になると、紅や白粉(おしろい)といった化粧品が大陸から入ってきました。692年、中国からの渡来層である「僧観成」(そうかんじょう)によって、日本で初めて鉛白粉(なまりおしろい)が作られました。女性であった持統天皇に献上され、大変喜ばれたそうです。ただし、当時の白粉には、水銀や鉛が含まれていたため、頻繁に使用すると、中毒症状を引き起こす有害なものでした。以降、公家の人々はこの白粉で肌を白く見せるようになっていきます。ヨーロッパでも14世紀のルネッサンスの復興が始まった頃、「女性は病的なくらいか弱いことが上品で美しい」とされ、美白がエスカレートしていき、鉛や水銀がたっぷり入った白粉を顔にべったりつけて、血色を悪くみせ、ビールを使って洗顔などをして、「雪のように真っ白な肌」になることを最大のステータスとしていたというような時代がありました。かの有名なイギリス女王エリザベス1世もその中の一人です。しかし、この頃の貴族たちは、肌に有害な美容法を実践していたため、実際の肌はシミだらけであったと言われています。こうして、中国大陸や朝鮮半島と交流を持ったことで、日本における「美しさの基準」も大陸の影響が色濃く現れるようになります。いわゆるイケメンというのも、時代によって様々で、縄文時代には顔が濃い方が男らしくてモテていたとされていますし、大陸から文化が入ってきた弥生時代以降は、薄い顔の方がモテたとも言います。時代ごとに移り変わるのが面白いですよね。この飛鳥時代に流行したメイクは、眉間に花模様の花鈿(かでん)、唇の端にはえくぼのような靨鈿(ようでん)を描き、白粉を塗った顔に頬紅や口紅をさし、眉は弓形の太い眉というのがスタンダードでした。中国の唐の宮中メイクがお手本となったとされています。ここから、日本では「白い肌が美しい」という価値観が定着したと考えられます。美白の価値は1400年たった今もあまり変わらないですね。
仏教が日本に風呂文化をもたらした!
もう1つ仏教がカミソリと共に今の日本にもたらした文化があります。それは、「お風呂」です。お風呂文化で思い出すのは、古代ギリシャや古代ローマの公衆浴場ですね。ここでは、古代ギリシャ人、ローマ人たちは美しさを求めて、日々脱毛に勤しんでいました。しかし、日本にこの風呂文化をもたらしたのは、ヨーロッパではなく、意外にも仏教でした。仏教において、お風呂に入ることは「病を避けて、服を招来するもの」とされていたそうで、僧侶には入浴が推奨されていました。そのため、沐浴の施設は、お寺と一緒に建立されていました。ただ、お風呂とは言っても現代のようにお湯に浸かるわけではなく、薬草を入れたお湯を沸かして、その蒸気を室内に満たすという「蒸し風呂」形式のお風呂だったそうです。鈿台の日本で大人気のサウナの原型とも言えますね。この蒸し風呂に入り、肌を蒸した後、垢を擦り落としてかけ湯をして洗っていたそうです。この時代、お風呂は贅沢なものだったので、今のように毎日入れるわけではなく、僧侶が修行の一環としてたまに入る程度でした。武士や一般庶民にはもちろんそういった習慣はまだ無く、水をかぶる行水をしたり、水をつけてただ汚れを落としたりするだけというようにして清潔を保っていたとされています。仏教は、聖徳太子の活躍の煽りを受けて日本各地に広がっていき、それとともに日本にカミソリや風呂文化も浸透していきました。
今回のまとめ
中国や朝鮮からの大陸の文化が日本にもたらした影響は大きく、鉄が日本に到来することで脱毛文化の下地ができ、仏教によってカミソリが広まっていきました。しかし、まだまだ飛鳥時代の段階では、脱毛は仏教の修行の一環でしかなく、現代のような美容目的の脱毛とは違いました。次回は、平安時代の脱毛文化についてお話ししていこうと思います。
福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾