前回までは、平安時代の脱毛の歴史についてお話しました。400年間続いた平安時代が終わり、次第に武力を備えた地方の豪族、いわゆる「武士」が台頭し始めました。1185年、源頼朝が鎌倉に幕府を置き、鎌倉時代が始まりました。それにより、本格的な武家政権による統治が始まりました。源頼朝が征夷大将軍に任命されたことで、政治の中心が朝廷貴族から武士に移ったことで、文化の担い手も貴族から武士へと変わり、次第に武家の文化が芽生えていった時代でした。鎌倉時代以降には、どのような脱毛の歴史があるのでしょうか?
【目次】
1.脱毛事情。鎌倉時代は烏帽子が脱げない!蒸れる!だから剃り始めた?!
2.武士たちは頭髪を剃り上げていたというより、抜いていた?!
3.今回のまとめ
脱毛事情。鎌倉時代は烏帽子が脱げない!蒸れる!だから剃り始めた?!
平安時代、公家の女性たちの間では十二単よりも長く髪を伸ばす「垂髪」(すいはつ)という髪型が美しいとされ、主流のスタイルでした。当時の男性も負けず劣らず、独特なヘアスタイルをしていました。それが、「冠下」(かんむりした)と呼ばれるヘアスタイルで、当時の指導者階級では冠帽をつけることが普通であったため、髪型はそれに都合の良い形に変化していきました。冠下がどのようなスタイルであったかというと、TVでよく見かけるちょんまげのお殿様ヘアのあのイメージです。束ねた髪を頭上で折り曲げ、先端を頭の上に持っていき、紫色の紐で結びます。当時紫色は最も高貴な色とされていたので、紫の紐を使用していたのでしょうね。被る冠は袋状になっていたので、そこに髪の毛を入れていました。そこから、鎌倉時代になり武士が台頭し始めると、武家の男性のヘアスタイルである「月代」(さかやき)が始まります。時代劇などでよく見るあのスタイルです。前頭部から頭頂部にかけて頭髪を剃り上げたスタイルで、元々は公家が冠や烏帽子(えぼし)を被る時に頭が蒸れるため、額の髪を半月に剃ったことが始まりとも言われています。武士たちが髪を剃り始めたのは、兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐためだったと言われているのですが、実は鎌倉時代には武士たちも日常的に烏帽子を被っていたので、公家と同じように烏帽子の群れを防ぐためでもあったのではないかと考えられます。この時代、頭頂部を人前に晒すということはとても恥ずかしいこととされていました。その文化は貴族たちが作ったものなのでしょうが、鎌倉時代の武士たちにも浸透していました。しかし、武士と言っても、田舎の方の武士たちまでもが日常的に烏帽子を被っていた訳ではないと思います。あくまで都や都に関係するところ、朝廷側の人たちなどが日常的に使用していたという話です。戦へ向かう際に兜を被る際にも、烏帽子を外さない武士は多かったようです。烏帽子や兜にもさまざまな種類があって、被る人の用途に合わせていたようです。烏帽子はこの時代もはやカツラのようなものであり、人前で外れたりなんてしたら恥ずかしくてしばらく人前に出られないくらいだったようです。
武士たちは頭髪を剃り上げていたというより、抜いていた?!
日常的に烏帽子を被ったり、兜を被ったりすることがあった武士たちは、頭髪があることで蒸れてしまうため、前頭部から頭頂部にかけて髪の毛を剃りあげていたようです。剃り上げていたとは言いますが、当初は剃っていたのではなく、なんと抜いていたというから驚きです。木鑷(げっしき)と呼ばれる木製のピンセットのような毛抜きを使い1本1本髪の毛を挟んで抜いていたそうです。抜くのは手間もかかり、毛を抜いた後は血だらけになってしまうこともあったそうです。ただ、毎回やっていた訳ではなく、この髪型にするのは、戦時だけの臨時的なものではあったようです。戦時の時だけ手入れしていたとなると、中途半端にチクチクと髪が生えていて不恰好になっていることが想定できるので、そんな状態を見せるのは確かに恥ずかしいかもしれませんね。また、寺院や幕府が積極的に施浴を庶民に施したため、鎌倉時代頃から髪や体の身だしなみが習慣化してきました。3日に1回は髪を梳かし、5日に1回は入浴していたそうです。米糠や豆などを原料としたものを使い、体の汚れを落とし、花などの成分が入った化粧水で肌を整えていました。こうして、白粉を塗った肌の白さより、透明感がある白い素肌がより美しいとされ、白粉メイクも少しずつ薄くなっていったようでした。
今回のまとめ
平安時代から、鎌倉時代へ移っていくと、身だしなみが習慣化していきました。これは、公家や武家のような身分が高い、権力がある、という人たちだけでなく、庶民にも次第に広まっていきます。次回は、室町時代以降の脱毛の歴史についてお話していきます。
福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾