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2022.10.09
コラム

カミソリが浸透した戦国時代!意外と古い!脱毛の歴史23

前回は室町時代の脱毛や服装などの文化についてお話ししました。室町時代は、服装も簡便化され、華美な衣装を纏っていた貴族たちもその勢力の弱体化により、段々と簡略された衣装を纏わざるをえなくなっていきました。武家では、礼儀作法や武家の制度が確立されていく中で、化粧の基本も定められました。上流階級の人々は、平安時代や鎌倉時代に引き続き、「引眉」という眉を全て抜く習慣がありましたが、庶民の中には眉を抜く習慣はありませんでした。今回はその後の戦国時代以降の日本の脱毛事情について歴史を見ていきましょう。

【目次】
1.織田信長はヨーロッパから輸入したカミソリで脱毛していた!
2.戦国時代、頭髪は剃毛するが、髭はわざわざつけていた?!
3.今回のまとめ

織田信長はヨーロッパから輸入したカミソリで脱毛していた!

15世紀中頃になると、各地を収めていた守護大名の権力争いが起きました。その後、足利義政(第8代将軍)の後継問題で、有力な守護大名の細川氏と山名氏が対立し、1467年に応仁の乱に発展しました。争いは京都だけにとどまらず、地方にも影響を与えました。京都南部の山城では武士と農民が守護大名を追い払う、山城国一揆が起こり、一向宗により結びついた武士と農民は一向一揆を起こしました。やがて将軍の力も衰え、天皇や貴族も領地を武士に奪われるなど、「下克上」が広がっていきました。力を持った守護大名は、戦国大名をして城下町を作ったり、分国法を制定したり、産業を盛んにしたりして、国の実権を握るようになりました。この応仁の乱以降の不安定な時代を「戦国時代」と言います。16世紀半ばになると、ヨーロッパ人が日本各地を訪れ、様々な文化を持ち込むようになります。1543年には、台風の直撃で南蛮船が鹿児島県の種子島に漂着し、乗船していたポルトガル人から鉄砲を譲り受けたという話は有名ですね。1549年には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に訪れました。同じく16世紀半ば、尾張(現在の愛知県)の「織田信長」は、桶狭間で「今川義元」を破り、将軍「足利義昭」を支えて都に上りました。その後、実権を握った信長は1573年に足利義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡しました。戦国を代表する武将であった織田信長は、鉄砲だけでなく一般人として、初めてカミソリを使った人物と言われています。武士独特のヘアスタイルであった月代(さかやき)を作るのに、折りたたみ式の西洋レザーを使ったそうです。いち早く新しい文化を取り入れることで知られる織田信長は、こんなところでも名を残していたのですね。

戦国時代、頭髪は剃毛するが、髭はわざわざつけていた?!

月代という武士特有のヘアスタイルが生まれた当初の鎌倉時代には臨時的に戦がある時に行っていただけでした。しかし、世は戦国時代。次第に月代は武士のヘアスタイルとして常態化していきました。しかし、当初は毛抜きで頭髪を抜いていたため、毎度抜くことを繰り返すことで頭皮に炎症を起こし、兜を被るのに支障が出てきたそうです。そんな頃に、織田信長がカミソリを使い始めたことをきっかけに武士階級も頭髪はカミソリで剃ることが主流となりました。この時代、公家の人々を真似て武将もお歯黒をして権威を表しており、この風習は江戸時代ごろまで続いていました。さらに、この頃から「髭が男らしさの象徴」として賛美されるようになり始めます。戦がはげしかった時代なので、男らしさを求められたのかもしれません。当時、髭ないものは「女面」と馬鹿にされたそうで、つけ髭をつけるのも当たり前だったそうです。つけ髭をつけていたことで有名なのは、「豊臣秀吉」で、文禄3年につけ髭とつけ眉をつけてお花見に言ったことが記録に残っているそうです。ヒゲは庶民の中でもファッションとして流行したほどでした。

今回のまとめ

時代の流れと共にいよいよヨーロッパからの文化が日本にも入りました。様々な文化を積極的に取り入れていた織田信長がカミソリを使用するという文化を広めたおかげで、武士たちの頭皮は以前よりは炎症を起こさなくなったようですね。さすがカリスマの信長は、影響力が大きいです。このカミソリは、庶民にも次第に広まっていきました。信長の動きがきっかけでこの後も日本の文化が少しずつ変化していきます。次回は安土桃山時代の脱毛や美容の歴史についてお話ししていきます。

福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾