1600年の関ヶ原の戦いにて、動乱の時代を終わらせた徳川家康。その家康が1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開き、そこから260年間という長きに渡って江戸時代が始まります。長かった戦乱の世が終わり、ようやく本当に天下が統一され、やっと安定した生活を送ることができる時代が到来しました。この江戸時代、日本の脱毛事情はどのように変化していったのでしょうか?今回は江戸時代の脱毛事情についてお話ししていこうと思います。
【目次】
1.毛の処理道具としてカミソリが一般化する
2.しきたりでカミソリを使って眉毛の剃毛をするようになる
3.今回のまとめ
毛の処理道具としてカミソリが一般化する
江戸時代に入ると、日本刀の技術を活かして作ったへの字型をした片刃のカミソリが、毛の処理道具として一般化されました。各地でカミソリをはじめとして、包丁やノコギリ、ハサミや農機具といった刃物の生産地として栄える地域が出てきました。毛抜きもこの刃物産業の発展に伴い、現在使われているものとほぼ同型のものが生産され、使われるようになってきます。
しきたりでカミソリを使って眉毛の剃毛をするようになる
奈良時代以降の日本には、公家や武家などの上流階級の人々が行う「元服」(げんぷく)というしきたりがありました。元服とは、成人であることを示す儀式で、現代でいう成人式のようなものです。男子は一定の年齢を迎えると、お歯黒をして、月代(さかやき)を作り、髪を上部で結い上げ、成人用の冠や帽子を着用します。女子の元服は、結婚を意味し、結婚が決まると、お歯黒をし、眉を剃り落とし、額の上に引眉を描き、厚化粧をして、「裳」(も)という腰から下にまとう衣装を着ていました。それが、江戸時代になると、元服は庶民の間でも行われるようになります。儀式は簡略化していき、男子は月代という時代劇でよく見るスタイルに髪を剃ること、庶民の女性は結婚するとお歯黒をつけることで、成人を表していました。「黒は何者にも染まらない」ということから、当時のお歯黒は女性の貞節を表すものでした。このお歯黒は、現代でいう結婚指輪のようなものだったのですね。現代の私たちからすると「歯が真っ黒なんて不気味・・・」と思ってしまいそうですが、時代や文化が違えばこんなにも価値観が違うのですね。この風習は広く普及し、1688年の元禄時代になると、江戸だけでなく全国各地へと広まっていきました。女性の元服のルールは、お歯黒だけでなく、「子供ができたらカミソリで眉毛を剃り落とす」というものがありました。現代では眉毛を抜きすぎて綺麗に生え揃わなくなってしまったから、なんとか眉毛を描く!ということや、眉毛パーマのサロンに行ってなんとか眉尻まであるようにしてもらうなんてこともしているぐらいですが、当時の女性は、歯の黒さや、眉の剃り跡に対して、美しさを感じていたのでしょう。元服のしきたりが庶民に広まったことで、見た目だけで成人しているのか、していないのか、未婚者なのか、既婚者なのか、子供がいるのか、いないのかということが見分けられるようになっていったのです。
今回のまとめ
江戸時代では、「どんな人なのかをひと目見てわかるようにする」ということが約束事としてありました。今でも職業によっては制服があり、その制服を見て職業の判別をすることは可能ですが、プライベートまでは見た目で判断はしにくいものです。現代も見た目を意識してファッションやヘアスタイル、メイクをして自分の好きなようにオシャレを楽しむ方は多くいますが、江戸時代のファッション・ヘアスタイル・メイクはオシャレの他に、身分や年齢、どのようなライフステージなのかを示すものでもあったようですね。この現代で、見た目で身分やステータスをわかるように示せなんて規定を決めたら、大目玉を食いそうですよね。そういえば、「大奥」という有名ドラマの中で、将軍の側室役の女優さんの1人が、お歯黒に眉毛がないという状態なのを見て、当時子供だった私は衝撃を受けたということを思い出しました。(笑)時代が変われば、価値観は変わるということですね。このような時代背景の元、さまざまな場面でカミソリは使われていきます。次回はもう少し深く、江戸時代の脱毛事情についてお話ししていきます。
福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾