終戦後の経済復興にともなって、再び活発になった日本の美容業界やファッション業界、そして脱毛業界。1960年代の高度経済成長期に入り、日本人の暮らしはさらに大きく変化していきました。東京オリンピックの開催や、東海道新幹線が開通したのもこの頃でした。街にはいくつもの高いビルが建ち、鉄道などの交通機関も整備され、東京などは「都市」へと発展していきました。この高度経済成長にともなって、日本の脱毛事情はどのように変化していったのでしょうか。
【目次】
1.VIOのムダ毛処理よりも、ワキ毛のムダ毛処理の方が遅かった!
2.海外モデルの影響で、ムダ毛処理の文化がより一般化!
3.ニードル脱毛がついに日本に登場する!
4.今回のまとめ
VIOのムダ毛処理よりも、ワキ毛のムダ毛処理の方が遅かった!
昭和20年以降の洋装化に伴い、ショーツが普及し始め、VIOの除毛をする女性が現れ始めたころ、実は日本人女性はワキ毛の処理はしていませんでした。それがやっと、1960年代に入り、日本における脱毛の中で初めて、ワキ毛の処理をし始めます。この頃まで、メンズも女性も関係なく、ワキ毛はセックスシンボルとして捉えられており、ムダ毛だという概念はありませんでした。そんな日本にワキ毛はムダ毛だとする意識をもたらした最大の理由は、服の洋装化でした。この時代、アメリカでノースリーブが大流行し、日本にも伝わりブームとなりました。このことがきっかけで、日本文化にもワキ毛=ムダ毛という概念が備わり始め、ここから10年ほどかけて、日本女性のワキ毛処理は習慣化していきました。着物を着ていたことで、肌の露出といえば顔やうなじぐらいだった日本人女性は長い間、顔やうなじのムダ毛しか気にしていませんでした。しかし、服装が変わったことで、肌の露出が増えたことで、体毛が気になり始め、処理をする人が増えた時代でした。
海外モデルの影響で、ムダ毛処理の文化がより一般化!
1967年にファッションモデルのツィギーが来日したことで、日本人女性のメイクにも革命的な変化が訪れます。日本は今まで、白・黒・赤の伝統的な3色メイクをしていましたが、口紅に淡いシャーベットトーンが登場し、これをきっかけにカラーの種類が増え、メイクの幅が広がりました。これまでの3色メイクから完全に脱却したのです。女性のファッションアイコンは、それまで観ていた洋画の女優から、モデルへと移行します。ファッションモデルのツィギーは、「ミニスカートの女王」とも呼ばれており、日本にミニスカートブームを起こしました。このことにより、「足のムダ毛処理」がより一般化します。また、メイクの変化から、再び眉剃り文化も復活します。ツィギーのメイクは、上まぶたに二重ラインを描き、大きなつけまつげをつけ、肌は明るいピンク系にしていました。また、より立体的に、目を大きく見せるために、カミソリで眉を補足することで、目を誇張するようにしていました。そこから、細眉が美しい眉の基本形として定着しました。
ニードル脱毛がついに日本に登場する!
1972年、昭和後期に入ると、「ブレンド脱毛器」、現代でいう「ニードル脱毛機」が日本に輸入されます。このニードル脱毛は、エステティックサロンで施術技術を学んだ「電気脱毛技術者」により行われました。この脱毛器でセレブな女性はこぞってワキ脱毛をするようになりました。ニードル脱毛は、毛を目印として毛穴に針を刺し、そこに電気を流して毛根を焼き切って破壊していくという脱毛方法です。毛の1本1本を処理していくため、相当の時間がかかります。また、毛根を焼き切っていくという方法、つまり「火傷させながら施術していく」という方法なので、かなりの痛みもともないます。長時間痛みに耐えなければならないことに加え、費用もかなり高額であったため、庶民にはなかなか手を出せる脱毛方法ではありませんでした。そのため、この時代にニードル脱毛が一般化することはなく、多くの女性はカミソリで自己処理をすることが一般的でした。
今回のまとめ
ニードル脱毛が導入されるも、まだまだ脱毛へ通う人が少なかったこの時代でしたが、人々の暮らしが豊かになり、美容に時間やお金をかけられる人が増えたのもこの時代でした。そのため、日本各地でエステサロンがオープンし始めました。当初はフェイシャルエステのみでしたが、全身エステを取り扱うサロンが増え、進化していきました。日本の脱毛業界でもアメリカに負けじと脱毛機が開発されるようになっていきます。そして、アメリカではいよいよレーザー脱毛が開発され始めるのです。日本にレーザー脱毛が入ってくるのは、この時代よりもう少し先のことになります。いよいよ日本の脱毛の歴史が現代にまで近づきます。
福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾