前回は、戦国時代までの日本の脱毛や美容の歴史についてお話ししてきました。織田信長などの数多くの戦国武将が活躍したこの時代、武士たちは日常的に戦を行っていることが多く、兜を被る機会が増えたため、武士特有の月代(さかやき)という髪型をキープするために日常的に頭髪を剃り上げていました。月代がはじまった鎌倉時代当初は、木製の毛抜きで毛を抜き取っていたようですが、血が滲むなど、頭皮でのダメージが大きく、戦の回数が増えたことで支障が出ていたところ、織田信長がカミソリで頭皮を剃毛し始めてから、一気にカミソリで頭皮を剃ることが広まっていったのでした。今回はその後の安土桃山時代についてお話ししていきます。
【目次】
1.女性の髪型が大きく変わった安土桃山時代
2.日本についに銭湯が出現!古代ローマのテルマエとの違い
3.鎌倉時代以降から始まっていた理容業
4.今回のまとめ
女性の髪型が大きく変わった安土桃山時代
安土桃山時代に入ると、女性のヘアスタイルは大きな転換期を迎えます。平安時代から長く続いた髪を身長よりも長く伸ばすスタイルが廃れ、束ねた髪を輪にして作る「唐輪髷」(からわまげ)と呼ばれるヘアスタイルが流行しました。このスタイルは、当時の先進国であった中国の明の女性のヘアスタイルを、遊女が真似て始めたことがきっかけで流行しました。前髪を真ん中で分けた後、髪を頭上でまとめあげ、2つから4つの輪を作ってから、根元に余った髪を巻き付けて高く結い上げるというスタイルで、日本女性の髪型で初めてのアップスタイルでした。これが時代劇などで見かける日本髪の原型と言われています。いわゆるお雛様の髪型ですね。平安時代の垂髪から比べると、時代を追うごとに女性は動きやすい髪型へと変わっていき、明治時代以降にもなると、様々なおしゃれなヘアスタイルが流行していきます。
日本についに銭湯が出現!古代ローマのテルマエとの違い
安土桃山時代の終わり頃になると、銭湯が登場し、日本各地に広まりました。しかし、この頃もまだ湯に浸かるのではなく、蒸し風呂が主流でした。今でいう半身浴のような状態で腰前お湯に浸かり、体が温まると洗い場で垢を擦り落として洗い流していました。この頃には、ほぼ毎日入浴する習慣になっていたそうです。古代ローマや古代ギリシャでも、テルマエという公衆浴場が流行していました。そこでは、脱毛も行われていましたが、当時の日本にはまだその風習は入ってきていませんでした。当初は半身浴のようなものだった銭湯も、その後、肩まで浸かる「据え風呂」が登場します。これは、井戸水を薪で燃やして湯を沸かし、風呂を直接温めるタイプのもので、一般庶民の家庭にも広まりました。有名な五右衛門風呂もこの時代に生まれたものです。こうしてお風呂に浸かる生活様式が日本にも根付いていきました。
鎌倉時代以降から始まっていた理容業
鎌倉時代以降になると、身だしなみを整えることが習慣化していきました。その延長で、庶民にも「毛抜き」の風習が広まっていきました。古代ローマなど、ヨーロッパの方でも毛の除毛をするプロたちが存在していましたが、実は日本にも人の身なりを整える職業が存在していました。その職業の登場が、毛抜きの風習が広まった理由の1つだと考えられます。すでに、室町時代中期ごろの京都では、櫛やハサミ、毛抜きを使い、男性の髪を結い、ひげや月代を剃る職業の「髪結床」(かみゆいどころ)が町中に存在していました。髪結は町や村単位で抱えられ、「床」と呼ばれる仮の店で商売をしていたため、「床屋」と呼ばれていました。これが日本での理容業の始まりだと言われています。今現在も床屋さんは存在していますもんね。
今回のまとめ
この頃から、日本では男性の頭髪の除毛にはカミソリやハサミがなくてはならないものになっていきました。現代の床屋さんも、顔剃りを見事なカミソリ捌きで綺麗に仕上げてくれますよね。その技術は鎌倉時代から受け継がれていたものだったんですね。日本で顔の美容脱毛が始まったのは、794年の平安時代からで、頭髪の脱毛が一般大衆に広がるまで500年余りかかっています。世界の脱毛は紀元前3000年の古代オリエントから始まっていることを考えると、日本の脱毛はだいぶ遅いようですね。次回からは江戸時代の脱毛の歴史についてお話ししていきます。
福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾