1926年になると、大正天皇が没し、昭和天皇が即位したことで昭和時代が始まりました。大正時代に大流行していた、「モダンガール」や「モダンボーイ」の人気は衰えることなく、東京の銀座エリア一帯は変わらずモダンファッションの発信地のままでした。そんなモダンガールやモダンボーイたちの活躍は昭和初期ごろまで続きます。彼らの影響により、日本にはより一層西洋の美容文化が浸透しつつありました。今回は、昭和時代の美容事情や、脱毛事情について話していこうと思います。
【目次】
1.“顔の産毛を剃毛するべき”と美容書に書かれていた昭和
2.第二次世界大戦により、脱毛・美容が衰退する
3.アメリカでブレンド脱毛法が誕生する
4.今回のまとめ
“顔の産毛を剃毛するべき”と美容書に書かれていた昭和
昭和初期に書かれていた美容書には、「化粧映えするためには顔にカミソリを当てることが必要」と書いてあったそうです。また、「顔剃りをするタイミングは入浴後が一番で、それ以外の場合は熱いタオルで肌を蒸して、皮膚を柔らかくしてから石鹸をつけて剃り、最後には化粧水をつけること」などという内容も紹介されていたようです。世界で「肌に硫黄や硫酸を塗る」、「毛を抜いた後の毛穴に汚れた針を差し込んで炎症を起こす」など信じられない方法で毛を生やさなくさせようとしていた明治時代ごろと比べると、昭和の頃からは化学的に正しい美容法が推奨されるようになってきたことがわかります。昭和は西洋レザーの普及も進み、自身でムダ毛を処理するセルフケアが主流になった頃でした。しかし、自身の美容に時間やお金をかけられるのは、都会の裕福層の人々が中心でした。農村や山間部に住む人々は、江戸時代を引きずっているような生活を送っていました。彼らの大半は、農業に就く人々で、当時の日本の約60%は農業に携わる人々だったそうです。一気に発展した時代だと思われているが、西洋文化がもたらした民主主義により、急速に貧富の差が広がった時代でもあった。
第二次世界大戦により、脱毛・美容が衰退する
1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め入り、その二日後イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。ご存じの通り、南北アメリカ大陸を除く、ほとんどの地域を戦場とする史上最大の戦争でした。終戦後は、敗戦国となった日本の人々は節約や簡素を第一とした生活を送ることになりました。戦争によって、美容業界は退行を余儀なくされたため、発展しかけていた日本の美容界や脱毛も衰退していったのでした。
アメリカでブレンド脱毛法が誕生する
日本が敗戦を迎えた1945年に、アメリカでブレンド脱毛法が誕生しました。1916年に登場した電気分解脱毛法と1924年に登場した高周波脱毛法を組み合わせた方法で、コンビネーション法と呼ばれることもあります。アーサー・R・ヒンケル氏とヘンリー・E・セイント・ピエール氏によって発明された方法で、電気分解脱毛法と高周波脱毛法それぞれの長所を生かし、欠点を補うために2つを組み合わせました。3年後の1948年には、「ブレンド脱毛法」として特許登録が認められました。この当時のアメリカは、日本の一歩も二歩も先を進んでいました。
今回のまとめ
第二次世界大戦が起き、世界中が動乱の世となっていた時代。日本の人々は、毎日の生活をしていくことで必死でした。敗戦国となったことで、より一層生活は厳しくなり、自分の美容に時間をかける余裕は全くなかったのです。そんな中、脱毛業界全体としては発展があり、アメリカでついにブレンド脱毛法が生まれ、脱毛業界はさらに進化を遂げました。この後、戦後の復興によって、日本経済は再び動き出します。次回は戦後の日本の脱毛事情についてお話ししていきたいと思います。
福井脱毛エステティックサロンUNO>>>ichikara
中村真綾